ハチミツの香りは永遠(とわ)の思い出
彼が生まれたのは、8月2日だ。私はいつからか彼のことをハニーと呼んでいる。
田舎のバカップルみたいで気恥ずかしい気もしたけど、彼もハニーと呼ばれることはちょっと気に入っているようだから、まあ、良しとしよう。
ハニーと同棲をして2年になる。
「ねえ、ハニー」
「うん?」
「今日、誕生日なのに家にいるの?」
「うん…風邪をひいたかも。鼻水が垂れるし、喉も痛い。今飲んでいるコーヒーも、ちょっと微妙な感じだし。味覚が鈍ってる、きっと」
「お誕生日会はどうする?」
「悪いけど今日は食欲もないし、家にいたいな」
「そっか…じゃあ、ハチミツバルサミコ酢ドリンクを作ってあげるね」
「ハチミツバルサ……ミンコ…スコドリンコ?」
私の提案にハニーはちょっと戸惑った顔をしている。そんな彼の、とぼけた顔が私は大好きだ。
私はハニーのきょとんとした顔を見つめながらキッチンに向かった。
熱があるせいかな…ハニーは途方に暮れたような遠い目をしていた。
「あった、あった」
私は冷蔵庫から、ハチミツとバルサミコ酢の瓶を両手に持って彼に見せた。
「ねえ、そのハチミツなんとかって風邪に効くの?」
「さあ、わかんない。でもコーヒーよりマシでしょ。少なくともハチミツって栄養満点なんだから」
「ふーん。例えば?」
ハニーはさほど興味はなさそうに、ただ言葉をつなぐためだけのように尋ねた。
私は「待ってました」とばかりに、ハチミツの効能を説明した。
「老化防止や不眠、脳の活性化にもいいんだって。ミネラルやたんぱく質なんかも豊富で、美容成分が多く含まれているし」
「なんとなくカラダに良さそうなのはわかった。けど、それと風邪とどう関係あるの?」
「わかんない。ミネラルや糖分が疲労回復に効くってことかな?まあ、いいじゃん。おいしいんだしさ」
「そうだね。ありがとう」
「ハニーってホント素直だよね。なんでも受け入れるというか。まるで『地味にスゴイ!』の折原幸人くんみたい」
「とにかく…」とハニーは私の言葉を遮った。私が「地味にスゴイ!」について語り出すと、止まらなくなることを知っているからだ。私がしゃべり続けると、きっとハニーの熱は上がってしまうだろうしね(笑)。
「とにかくハチミツなんとかを早く飲みたいな」
「はいはい、ハニー」
私はキッチンに戻って、ハチミツバルサミコ酢ドリンクを彼に渡した。
「そーいえば、私、シャンプー替えたの知ってた?ハチミツ入りなんだよ」
実は私、最近すごくお気に入りのハチミツ入りシャンプーについて、自慢したくてうずうずしていたのだ。
だから唐突に、「ハチミツバルサミコ酢ドリンクを作ってあげよう!」なんて言い出したんだ。
私はハニーの隣に座って、私の髪が彼の横顔に触れるか触れないかまですり寄った。
「…いい香りだね」
ハニーは弱々しい鼻声で呟いた。
「どっちが?」
「どっちって?」
「ドリンク?私の髪?」
「…あ、もちろん髪の香りだよ」
私はハニーが「めんどくせーな」と思っているのがわかる。
でも、その「めんどくせーな」と思いながらも、ちゃんと答えてくれる彼の真面目さが、私は大好きなんだ。
「ふーん」
私はわざと気の抜けた返事をした。
部屋にはノラ・ジョーンズの「ドント・ノー・ホワイ」が流れている。私たちの音楽の趣味はまったく合わないのに、不思議とノラ・ジョーンズだけは2人ともお気に入りだった。
ノラ・ジョーンズの歌声は、いつも甘くやさしい。今この部屋を包み込むハチミツの香りのように。
「いい香りだね。そんなにカラダにいいなら、僕もそのシャンプー使ってみたいな」
「ふふっ。でもハニー、あなた坊主じゃない」
私はハニーの高校球児のような坊主頭をなでながら、背後から両手を回して、頬ずりをした。
だって甘えたいんだもん。私はハニーの、冗談なのか本気なのかわからないこんなセリフが大好きなんだ。
「そっか。まあ、どんな髪にも合う完璧なシャンプーなんて存在しないしね。完璧なミツバチが存在しないように」
「え~?でも、このハチミツ入りシャンプーは完璧だよ」
私はつい熱く主張してしまった。
お気に入りのハチミツ入りシャンプーが「アミノ酸系シャンプーの中でも泡立ちがまったく違うこと」「生ハチミツを使っているシャンプーはほかにないこと」「生ハチミツの配合率もほかのシャンプーに比べて圧倒的に一番多いってこと」「本当の天然成分だけのシャンプーはほかにないってこと」「ハチミツとアップルローズの香りが気分を最高に盛り上げてくれること」…などなど。
「じゃあ、やっぱり使ってみたい。髪伸ばすよ」
「へっ?」
私はハニーの真顔に思わず笑った。
「いいね、いいね。来年の春には私の髪くらい伸びてるかな?」
…あの夏から半年。
もう僕をハニーと呼ぶ彼女はいない。
バスルームには、彼女がお気に入りだったハチミツ入りシャンプーが置き去りのままだ。
僕とハチミツ入りシャンプーは無関係だと思っていた。でも、風邪をひいたあの日、彼女が僕にあいつの存在を教えてくれた。
「老化防止や不眠、脳の活性化にもいいんだって。ミネラルやたんぱく質なんかも豊富で、美容成分が多く含まれているんだよ」
あ、それは風邪に効くという、ハチミツバルサミコ酢ドリンクのことだ。
でも、あのとき朦朧としていた僕には、彼女の長い髪からほのかに漂う、甘くやさしいハチミツの香りしか記憶にない。
いや、彼女が去ったあとの残り香だけが部屋を包んでいた。いや、包んでいた気がしただけかもしれない。
とにかくそれが、ハチミツ入りシャンプーとの出逢いだったのだ。
僕はいつまで髪を伸ばすのだろうか。また坊主頭に戻すべきだろうか。
でもそれは本当に、ハチミツの甘くやさしい香りに「さようなら」を言う気がして恐い。
僕はその残り香を思い出しながら、相変わらずノラ・ジョーンズの、甘くやさしい声に耳を傾けている。
まだ寒い初春の昼下がり、熱いハチミツバルサミコ酢ドリンクを飲みながら。
あの日と同じように、ノラ・ジョーンズが「ドント・ノー・ホワイ」と歌っている。
僕はまだわからないままでいる。
彼女がなぜ、この部屋を出ていったのか。
HONEY PLUS/ハニープラス
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